天之常立命あめのとこたちのみこと

天と地の極所にましまして、
天と地との軸のごとく
天地を保ち給う神なり

八束水臣津努命やつかみずおみずぬのみこと

国引きをなし、
国土を広くされ給う神なり

淤美豆奴命おみずぬのみこと

国引の時、
鋼になられ給う神なり

天香語山命あめのかごやまのみこと

一名を高倉下命と申し、
神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の
東征に力を貸し給う神なり

金持神社では三神を合わせて
お祀りしています。
三体妙見と言い、国土経営に力を入れ給う
神であると言い伝えられています。
また、神武天皇の東征に力を貸し給う
天香語山命(あめのかごやまのみこと)も
合祭しております。

弘仁元年(810年)伊勢の神宮御遷宮に向けて、出雲国薗妙見宮の神官の次男が出発するにあたり、「道中安全の為」と玉石を御守神として袋に入れて旅をしていました。しかし、この金持の地まで来たときに玉石袋が急に重くなり、どうすることもできずその場において伊勢に急いだそうです。時を同じくして、梅林家(現宮司)先代の吉郎左衛門に宮造りをするよう神夢があったことで、この玉石を金持の氏神として崇め奉ったと伝えられています。

「金持」と言う縁起の良い地名は、全国を探してもここ日野町にしかありません。かつて、この地は昔人が「黄金にもまさる」と大切にした鉄の産地でした。狩山(アサカリ)、野谷山(ノダニ)、平畠山(ヒラバタケ)と言う三つの鉄山があり、これらの鉄山を持つ村と言う意味で「かなもち」と言い、それが略されて「かもち」となったと言われています。

元弘三年(1333年)、金持大和守景藤は隠岐の国を脱出された後醍醐天皇を奉じて、金持党三百騎を引き連れて参向味方し大活躍しました。天皇が京都へ還幸の折には、金持景藤公は天皇の右側の名和長年公とともに、左側で「錦の御旗」を持ち上洛しました。国道181号線沿いの小高い丘の上には金持大和守景藤公のお墓とされる宝篋印塔が今も残っています。

金持神社境内には鳥取県銘木100選に指定された「サワラ」、「チャンチン(原産 中国)」等の樹齢600年~700年余りの木があります。チャンチンは鳥取県に1本しかない珍しい木で、センダン科の薬木です。先人がたたら製鉄でやけどをしたり、目を痛めたりしたため、やけどの薬や目薬として使用するために、植えたのではなかろうかと言われています。

[上]チャンチン
[下]サワラ

拝殿の中には当日野町出身の濱田珠鳳先生によるとても貴重な指画「龍神の図」・三枝美津子先生の日本画「野菊」の絵が奉納展示されております。一見の価値があります。

上段左:「長寿桜」
上段右:日本画「野菊」
下段:指画「龍神の図」