弘仁元年(810年)伊勢の神宮御遷宮に向けて、出雲国薗妙見宮の神官の次男が出発するにあたり、「道中安全の為」と玉石を御守神として袋に入れて旅をしていました。しかし、この金持の地まで来たときに玉石袋が急に重くなり、どうすることもできずその場において伊勢に急いだそうです。時を同じくして、梅林家(現宮司)先代の吉郎左衛門に宮造りをするよう神夢があったことで、この玉石を金持の氏神として崇め奉ったと伝えられています。
地名由来
「金持」と言う縁起の良い地名は、全国を探してもここ日野町にしかありません。かつて、この地は昔人が「黄金にもまさる」と大切にした鉄の産地でした。狩山(アサカリ)、野谷山(ノダニ)、平畠山(ヒラバタケ)と言う三つの鉄山があり、これらの鉄山を持つ村と言う意味で「かなもち」と言い、それが略されて「かもち」となったと言われています。
金持景藤
元弘三年(1333年)、金持大和守景藤は隠岐の国を脱出された後醍醐天皇を奉じて、金持党三百騎を引き連れて参向味方し大活躍しました。天皇が京都へ還幸の折には、金持景藤公は天皇の右側の名和長年公とともに、左側で「錦の御旗」を持ち上洛しました。国道181号線沿いの小高い丘の上には金持大和守景藤公のお墓とされる宝篋印塔が今も残っています。